飛鳥の宿 祝戸荘ASUKA NO YADO IWAIDOSOU

飛鳥の宿 祝戸荘

館内のご案内GUIDE IN THE HOTEL

『祝戸荘』は国営飛鳥歴史公園内にたたずむ、ロッジ風の宿泊施設です。
飛鳥は歴史文化遺産の宝庫として、その風土・景観を守るために全国で唯一の保存条例が定められています。
そのため公園内にある「祝戸荘」も景観に配慮し、山の斜面を利用した建物となっています。
藤原氏とゆかりの深い多武峰を東に望み、飛鳥川のせせらぎを聞く閑静な地にあります。
この四季おりおり美しい幻想に満ちた古代ロマンの地を訪ね、その魅力を十分体験していただくために、落ちついたスペースと充実した設備で皆さまのお越しをお待ちいたしております。
日本人の心のふるさと、万葉のふるさと飛鳥の観光に、そして学習・研修のご計画にぜひお役立て下さい。

祝戸荘俯瞰図 - - - - - - - - - - - -

01玄関

02ロビー・談話室・図書コーナー

03お食事処-椎の葉

04お風呂-御井の湯

05ウッドデッキ(槻の広場)

06研修室

07客室

08団体様用客室(小墾田の館)

- - - - - - - -

研修室の設備や利用料金について

『祝戸荘』では、各種セミナーや研修にご利用いただける研修室をご用意しております。用途にあわせて大・小の部屋からお選び頂けます。
また、団体様向けの和室も研修・セミナーにご利用いただくことができます。
価格も、たくさんの方にご利用いただけるようリーズナブルに設定しております。
インターネット回線、プロジェクタ・スピーカーなどの機器も無料でご利用いただけます。
ご宿泊・お食事のご用意も賜りますので、ぜひご利用ください。

研修室・和室のご利用料金
広さ(大)広さ(小)
研修室5,000円2,000円
和室3,000円2,000円

※大研修室は60~80名、小研修室は20~30名様の収容が可能となっております。
※ご利用は1時間単位となっております。
※プロジェクターなど、機器のご使用は無料です。
※PCはご持参下さい。

お部屋名の由来について

お部屋名一覧の図 太子 小墾田の館 守屋 馬子 板蓋の館 鎌足 入鹿 両槻の館 間人 額田 浄御原の館 草壁 大津 槻の広場 不比等 忍壁 藤原の館 御井の湯 お部屋には飛鳥時代100年の旧都や、その時代に活躍した人物にちなんだ名前をつけました。
お部屋の名前部分をクリックすると、それぞれの説明をご覧いただけます。

- -

ご予約はこちらから

ページの先頭へ

太子(たいし)

用明天皇の子。本名は厩戸皇子(うまやどのみこ)で、上宮太子・豊聡耳命(とよとみみのみこと)とも称されます。574~622年。 幼少の頃より仏教に篤く、聡明であったと伝えられており、推古天皇の時代には、皇太子・摂政となりました。 太子は宮を斑鳩に移し、斑鳩宮と斑鳩寺(若草伽藍)を造営し、そこで政治を行いました。 太子が行った内政改革には、冠位十二階制定による身分序列や十七条憲法の発布などがあり、外交面では遣隋使の派遣により大陸との対等外交を始めました。 さらに天皇記・国記の編纂を試みるなど、我が国の礎を作った人物です。

「太子」のお部屋は「小墾田の館」にございます。

◎和室 27畳 定員 8名 シャワールーム有り
◎太子にお泊りいただくと、大人数での談話に最適です。

小墾田の館(おはりだのやかた)

小墾田宮(おはりだのみや)は603~629年まで使用された推古天皇の宮殿です。
この宮殿で、冠位十二階や十七条憲法制定、遣隋使の派遣など、内政・外交など多くの新しい政策が実施されました。
特に、隋からの使者である裴世清(はいせいせい)らを迎えるのに十分な構造を持ち、後の宮殿の基本的な機能をすでに有していた本格的な宮殿であったことがわかります。
その後も、『日本書紀』『続日本紀』にも記録されており、奈良時代まで離宮として維持されていました。

小墾田の館(おはりだのやかた)の1階には「守屋」と「馬子」の客室、そして2階には団体様用客室の「太子」がございます。

守屋(もりや)

物部弓削守屋・弓削大連とも称されます。
敏達・用明天皇の時代に大連に任命されており、大臣である蘇我馬子と共に国政を担っていました。
しかし、祟仏・廃仏問題や王位継承など多くの場面で蘇我馬子と対立していきます。
用明天皇没後、守屋は穴穂部皇子の天皇即位をはかりましたが、馬子は穴穂部皇子を倒し、守屋を本拠である渋川(大阪府八尾市)で倒して、物部本宗家は滅亡しました。
いずれにしても飛鳥時代前夜において物部守屋は蘇我馬子と並ぶ大豪族でした。

「守屋」のお部屋は「小墾田の館」にございます。

◎和室 12畳 定員 5名 シャワールーム有り

馬子(うまこ)

蘇我馬子は、蘇我稲目の子。嶋大臣とも称されます。?~626年。
敏達天皇から推古天皇の時代、国政に大きな影響力を及ぼした人物です。
天皇家との婚姻関係によってその地位を確たるものとし、当時の大豪族であった物部氏を滅ぼしたことによって蘇我氏の地位をいっそう強固なものとしました。
姪にあたる推古天皇が即位すると、聖徳太子と共に内政・外交に励み、天皇記・国記の編纂にも尽力しました。
また、稲目の時代より仏教受容に熱心で、我が国初の本格的な伽藍をもつ飛鳥寺を建立しています。
馬子は推古34年(626年)に死去し、桃原墓に葬られました。

「馬子」のお部屋は「小墾田の館」にございます。

◎和室 12畳 定員 5名 シャワールーム有り

板蓋の館(いたぶきのやかた)

飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)は643~655年まで使用された皇極天皇の宮殿です。
当時の宮殿は茅葺か桧皮葺であったのに対して、屋根が板葺であったことから、この名称がつきました。
この宮殿で大化の改新の幕開けとなり、蘇我本宗家が滅亡した「乙巳の変」が皇極4年(645年)6月12日に起こりました。
その後、宮は難波へと遷されましたが、653年に飛鳥へ還都し、再び宮殿として使用されました。
この宮殿の場所は飛鳥寺南方の伝承飛鳥板蓋宮跡で、舒明天皇の飛鳥岡本宮や斉明天皇の後飛鳥岡本宮や天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮と同じ場所に建て替えられたと考えられており、造営にあたっては大規模な造成をした本格的な宮殿です。

板蓋の館(いたぶきのやかた)には「鎌足」と「入鹿」の2部屋がございます。

鎌足(かまたり)

中臣鎌子、後の藤原鎌足。614~669年。
明日香村小原の地で誕生したとされますが、一説には常陸地方の出身とする説もあります。
中臣氏は朝廷の祭祀を司る氏族です。
中大兄皇子(後の天智天皇)と親密になり蘇我氏の打倒を図りました。
皇極4年(645年)6月12日の「乙巳の変」で、蘇我本宗家の滅亡へとつなげました。
14日に孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子、中臣鎌足は内臣となり、改新政府が発足しました。
都を難波へと遷し、大化5年(649年)までに律令制度を整備していき、鎌足は皇太子を補佐し、改新政治の推進に影響力をもたらしたと考えられます。
さらに大津へと宮が遷った時も、天智天皇を補佐していましたが、天智8年に死去し、大織冠と藤原の姓が与えられました。

「鎌足」のお部屋は「板蓋の館」にございます。

◎和室 20畳 定員 7名 シャワールーム有り

入鹿(いるか)

蘇我馬子の孫。林臣・林太郎・鞍作ともに称されます。?~645年。
皇極天皇即位の頃から国政をとり、父の蘇我蝦夷よりも有能であったといわれています。
親縁にあたる古人大兄皇子の天皇即位を画策し、聖徳太子の長子の山背大兄王を斑鳩で急襲しました。
その後、甘樫丘に家を建て、蝦夷の邸宅を「上の宮門(みかど)」、入鹿の邸宅を「谷の宮門(みかど)」と呼んでいました。
これら入鹿の政策や動向に対して、中大兄皇子・中臣鎌足を中心とする改革派によって、皇極4年(645年)の「乙巳の変」で没しました。

「入鹿」のお部屋は「板蓋の館」にございます。

◎和室 20畳 定員 7名 シャワールーム有り

両槻の館(ふたつきのやかた)

両槻宮は斉明2年(656年)に造営された斉明天皇の離宮です。
『日本書記』によれば多武峰に垣を巡らして、2本の槻の樹のほとりに、楼観を建てたとあります。
またの名を「天宮」とも呼ばれていました。
その後、この宮は大宝2年(702年)にも修繕した記事が『続日本紀』にあり、40年以上にわたって維持されていたことがわかります。
この宮殿の候補地としては酒船石のある丘陵とする説もあるが、さらに上方の多武峰に考える説もあります。

両槻の館(ふたつきのやかた)には「間人」と「額田」の2部屋がございます。

間人(はしひと)

舒明天皇と皇極天皇の子。?~665年。
孝徳天皇の皇后となり、「乙巳の変」の後は難波に遷りました。
しかし、白雉4年(653年)に孝徳天皇と中大兄皇子との間で、飛鳥への還都をめぐって対立した時に、中大兄皇子が群臣を率いて飛鳥河辺行宮に遷ると、母の皇極上皇と共にこれに従いました。
天智4年(665年)に亡くなると、母の御陵である「越智崗上陵」に合葬されました。
現在の牽牛子塚古墳と考えられています。

「間人」のお部屋は「両槻の館」にございます。

◎和室 20畳 定員 7名 シャワールーム有り

額田(ぬかた)

鏡王の子。生没年不詳。『万葉集』に長歌3首、短歌9首を収め、斉明・天智天皇時代の公的な場における雑歌・挽歌が大部分を占めます。
額田王の作とされるものには異伝が多く、天皇や皇子の作とみるむきもあるが、これは形式上の作者と考えられています。
近江遷都や熟田津の歌、天智天皇の挽歌など国家的行事における作品のほか、蒲生野薬猟における歌など、豊かな才情を偲ばせるものが多く残されています。

「額田」のお部屋は「両槻の館」にございます。

◎和室 20畳 定員 7名 シャワールーム有り

浄御原の館(きよみはらのやかた)

飛鳥浄御原宮は672~694年まで使用された天武・持統天皇の宮殿です。
この宮殿では飛鳥浄御原令の制定や官僚制度の整備、戸籍の整備や国史編纂事業などが行われました。
この時代、天武天皇がはじめて「天皇」と呼ばれるようになり、「日本」という呼称もこの頃からはじまったと考えられています。
宮殿の場所は飛鳥寺南方の伝承飛鳥板蓋宮跡で、斉明天皇の後飛鳥岡本宮の施設を利用しながら、南東部にエビノコ郭を増設し、外郭を整備したものです。
さらに宮の内外には官僚制の整備にともなって、各種の官衙(役所)が建ち並んでいきました。

浄御原の館(きよみはらのやかた)には「草壁」と「大津」の2部屋がございます。

草壁(くさかべ)

天武天皇と持統天皇の子。日並知皇子とも称されます。662~689年。
壬申の乱では父の大海人皇子(後の天武天皇)らと共に吉野へ脱出し、東国におもむきました。
天武8年(679年)には吉野宮で、天武・天智の諸皇子の首として誓盟を行い、同10年(681年)には皇太子となりました。
朱鳥元年(686年)に天武天皇の病にあたって、皇后と共に天下の事を委ねられたが、草壁皇子は皇太子のまま、持統称制3年(689年)に没します。
後に、岡宮天皇と追尊されています。

「草壁」のお部屋は「浄御原の館(きよみはらのやかた)」にございます。

◎和室 12畳 定員 5名
◎バリアフリー対応

大津(おおつ)

天武天皇と太田皇女の子。663~686年。
容貌たくましく、壮年に武を愛したが、幼時より文才に秀で、天智天皇に寵愛されていました。
壬申の乱では、大海人皇子(後の天武天皇)側につき、天武朝には皇太子の草壁皇子に次ぐ地位となりました。
朱鳥元年(686年)に天武天皇が崩御すると、皇太子に謀反したことで逮捕され、訳語田の家で死を賜りました。
『懐風藻』にはその臨終の歌が残されています。
姉である大伯皇女の『万葉集』の歌によると、皇子の墓は二上山に移葬されたことがわかります。

「大津」のお部屋は「浄御原の館(きよみはらのやかた)」にございます。

◎和室 12畳 定員 5名 浴室有り
◎バリアフリー対応
◎ベッドをご使用の場合はお申し出ください(2台まで)

槻の広場(つきのひろば)

飛鳥寺の西側に広がる広場で、槻の大木があったとされます。
ここには後に大化の改新の立役者である中大兄皇子と中臣鎌足が、蹴鞠の最中出会った場所としても有名です
。また、斉明天皇の時代には、蝦夷からの人々がこの地で饗宴したとも記されており、壬申の乱に際しては、近江軍が駐屯した場所でもあります。
飛鳥時代から有名な広場で、歴史的エポックには必ず現れる聖なる空間です。

「槻の広場」は施設のちょうど中心に位置するアウトドアスペースとして、皆さまの憩いの場所となっております。

不比等(ふひと)

藤原鎌足の子。659~720年。
持統天皇以降歴代天皇の信任が厚く、不比等の娘の宮子は文武天皇の夫人となり、後に首皇子(聖武天皇)を産みました。
大宝律令の作成に活躍し、和銅元年(708年)には右大臣となりました。
平城京遷都にあたっても、多大な影響力を与えており、晩年には養老律令の作成を主宰しました。
養老4年(720年)に没し、太政大臣正一位を追贈されました。
律令国家形成期にあたって政務の運営を指導し、国家の基礎固めに大きく貢献すると共に、皇室との婚姻関係による特権貴族としての藤原家の地位を不動のものとした人物です。

「不比等」のお部屋は「藤原の館」にございます。

◎和室 20畳 定員 7名 シャワールーム有り

忍壁(おさかべ)

天武天皇の子。刑部・忍坂部とも書きます。?~705年。
壬申の乱では父の大海人皇子(後の天武天皇)と行動を共にし、天武10年(681年)には川島皇子らとともに、帝紀および上古諸事の記定事業にあたっていました。
高市皇子の没後は諸皇子の中で代表的な存在となり、大宝律令の作成を主宰し、大宝元年(701年)に完成させました。
持統上皇崩御後、初代知太政官事となり、草創期の律令政治に貢献した人物です。
皇子の宮は雷丘の近くに推定され、雷丘北方遺跡がその有力な候補地となっています。

「忍壁」のお部屋は「藤原の館」にございます。

◎和室 20畳 定員 7名 シャワールーム有り

藤原の館(ふじわらのやかた)

藤原の宮は694~710年まで使用された持統・文武・元明天皇の三代の宮殿です。
この宮殿では大宝律令の制定や二官八省の官司制度の確立など我が国の律令国家の基礎が完成しました。
さらに遣唐使の再開や銭貨の鋳造などを行っています。
「藤原京」は「新益京(あらましのみやこ)」 とも呼ばれ、中国の制度を取り入れた都城で、その中央には、天皇の住む内裏、儀式の場である大極殿、 政治の場である朝堂院、各省庁の建物である官衛(役所)が1km四方の中に集約されています。
この周囲に碁盤目状に条坊道路があり、ここに宅地・寺院などが配置されています。
我が国初の中国条坊制都城です。

藤原の館(ふじわらのやかた)には「不比等」と「忍壁」の2部屋がございます。

お食事処「椎の葉」(しいのは)

テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト

御井の湯(みいのゆ)

御井の湯は、飛鳥を守った大恩人である「御井敬三氏」の名前からつけられました。

和歌山県出身の御井氏は小学校を卒業する頃から視力が低下、盲学校を経て漢方医の道を歩みました。
終戦後大阪市内に脈診研究所を開き、脈に触れて患者の病状を診断し、ハリとキュウで治療する医院を経営。
漢方医としての評判は高く、多くの患者を診ていました。

御井氏が飛鳥を訪れたのは昭和40年初めの頃でした。
職業とする漢方脈診が、千数百年の昔、飛鳥に伝わったことを知り、飛鳥に興味を覚えられたのです。

喧噪の大阪と違い、空気は美しく不自由な目には古からの素朴な風景が残され、そして万葉にうたわれた飛鳥川や甘橿丘、小屋から手のとどく範囲でさえ古代人の生活がしのばれるこの地に心を打たれ、農家の柴小屋を借りて別荘にし、月に2~3度来村するようになり、その後足しげく運ぶたびにますます飛鳥のとりこになり、とうとう、御井氏は子弟に診療所をまかせ、居を飛鳥に移してしまいました。
折も折、御井氏は飛鳥の昔ながらの風景が、隣接する橿原市の方から次第に破壊されはじめているのに気づきました。
宅地開発の波が甘橿丘のすぐ西側まで迫ってきていたのです。
「なんとかこのままの美しい姿で残ってほしい、次の世代につたえていきたい」
その思いが御井氏を飛鳥保存へとつき動かしました。
私財を提供して「飛鳥古京を守る会」を活性化させ、また「飛鳥村塾」の開講により飛鳥の自然と史跡を積極的に守り、飛鳥を愛する人々を育てる場として、さらに日本民族の故郷(ふるさと)飛鳥の歴史・文学を通して日本人としてのこころを養う場として開放したのです。

こうした中で御井氏の熱い思いは時の首相「佐藤栄作氏」にあてて飛鳥を保存してほしいという直訴状(※)を送ることに発展します。
昭和45年のことでした。
以後飛鳥保存は一地方・一個人の取組から国家政策に組み込まれていったのです。

※直訴状は親交のあった、当時の松下電器産業会長である松下幸之助氏のアドバイスにより、録音テープに吹き込まれ、松下氏を介して佐藤首相に届けられました。

「御井の湯」は施設3階にございます。